毛利小学校

東京都錦糸町近く
江東区立毛利小学校は 私の母の母校❤️
昭和10年に入学し16年に卒業しています。

母の記憶では大空襲で焼け野原になったので
小学校が無くなっていたはずが、ありました。
7年前に
毛利小学校は100周年をお祝いしています。
その時に発行した記念冊子を頂けることに
なりました。

記録によると
明治45年 大正天皇がご結婚なされた記念に、お祝いとして、明治天皇から東京市にいただいたお金をもとに、毛利小学校はつくられた

大正11年 日本最初の鉄筋コンクリート三階建ての新校舎ができた。児童用のお風呂が備えられた

大正12年 関東大震災で校舎内部全焼。坂間校長は町の人々を守りながら殉職
栄養失調のこどものために給食を始める。

昭和4年 校舎が現在の場所に再建される

昭和10年 東京市毛利尋常小学校に改名

昭和11年 2・26事件のため臨時休校

昭和12年 日中戦争が起こり、出征軍人に慰問文を送る

昭和15年 剣道や柔道、なぎなたの練習がさかん になり、遠足も歩行鍛錬に力を入れた

昭和16年 東京市毛利国民学校に改名
慰問文を関東軍海軍に送る

昭和17年 初めての空襲で、東京に爆弾が落とされた。男の先生が招集されて少なくなったので、学級数を減らした

昭和18年 学校に防空壕ができた

昭和19年 三年生以上の298名が先生と一緒に新潟県に学童疎開した

昭和20年 空襲で深川地区の
焼失家屋 4万戸、死者 1万8138人
深川地区で焼けずに残った小学校は
明治、明治第二、数矢、そして毛利。

昭和21年 疎開先で6学級を編成 児童数115名
疎開先から引き上げた

昭和22年 東京都江東区毛利小学校と改名
給食(ミルク)が始まった

小学校には土曜日に突然訪れたので、先生達がいらっしゃいませんでしたが、当直の方に、母は昭和16年卒業生であることを手紙に書いていました。
明治45年に出来た毛利小学校の歴史のひとコマを過ごした母の想いはいかんばかりか。

母の住んでいた場所は
猿江恩賜公園になっていたこともわかりました。
大きな猿江公園は以前からありましたが、
焼け野原になった場所は、恩賜公園となり、美しい緑豊かな自然に様変わりしてました。
母も喜んでいました。

母の人生、
今の私達には知る由も無い、戦争と向かい合う学童期だったんだと、感じました。

改めて、戦争のない平和な日本であることを祈ります❤️

#川崎和子 #毛利小学校 #猿江恩賜公園 #母の母校




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